※本記事は、当社がこれまでに自治体や金融機関から受託して行ってきた事業承継の無料相談をもとに、ストーリー形式で再構成したものです。お話しくださったご相談者とその会社が特定されることのないよう、社名や人名を伏せ、記事に応じて内容の一部に手を加えています。登場する企業・人物は、特定の企業・個人を示すものではありません。

背景:子どもは継がない。だから「右腕」に託す

首都圏で広告業を営むA社。社長は自社株を100%保有するオーナー経営者で、A社のほかにも複数の会社を経営してきました。子どもたちには会社を継ぐ意思がないため、長年ともに働き、共同経営者のように育ててきた従業員のBさん(50代)への承継──いわゆる従業員承継を考えています。目標は、おおむね3年後の承継完了です。

しかし現実には、どこからどう着手すべきか、手順が全く分からないという状態でした。セミナーを受講したことをきっかけに、社長は自治体の事業承継訪問相談に申し込みます。専門家への相談を通じて、自分のすべきことを見える化したい。それが最初の動機でした。

初回の相談では、着手前に整理すべき課題が次々と挙がりました。金融機関からの借入金の返済が残っているため、債務保証の引き継ぎについてメインバンクとのすり合わせが不可欠であること。後継者がそのリスクを十分に理解し、場合によっては配偶者や家族の合意を取り付ける必要があること。そして、社長自身の親族への意思確認──本当に親族以外へ譲ってよいのか──も欠かせないこと。訪問相談の担当者は、借金の返済義務は負の相続財産に含まれ、プラスの財産だけを相続することはできないという原則も説明しました。

Bさんは実務では申し分のない存在ですが、経営能力は未知数で、とりわけ財務については社内で学ぶ機会がないまま来てしまっています。担当者は、税務・法務・相続対策をバランスよく織り込んだ「全体最適」の事業承継計画づくりが不可欠だと助言しました。

相談の経過:ナンバー2をナンバー1に変える

2回目の相談では、議論が一段と具体的になります。Bさんの家庭内でも合意形成が進み、承継を後押しする声が出ていることが共有されました。創業当初はごく少人数で始めた会社だといいます。

一方で、担当者が指摘したのは、カリスマ型の社長のもとで長くナンバー2を務めた人に生じやすい「忖度と萎縮」という心理でした。社長の力を100とすれば後継者は80、その次は70と、会社全体の基準が沈んでいく「縮小再生産」に陥りやすい。これを断ち切るには、ナンバー2からナンバー1へと立場を転換し、当事者意識を腹落ちさせるプロセスが必要です。

そこで、代表交代の前に「気持ちが固まり、体制が整う」期間を置く「プレ事業承継」の考え方が示されました。社長は、秋にBさんを副社長に任命して半年間は自らが伴走し、その後3年間は会長職としてフォローする計画を描いています。副社長の期間には現金の出納を机上で可視化させ、入金と出金の時間差を実感として把握させる。個人保証や担保提供まで含めた覚悟を言葉にする、対話のためのノートを2人で書き進める。事業継続計画(BCP)の策定では後継者に委員長を任せ、会社の全体像の把握と有事の優先順位判断を鍛える──。育成の設計は、かなり具体的なところまで進みました。

株式の移転についても、暦年贈与や退職金の活用といった選択肢が議論され、税務戦略は税理士との綿密な打ち合わせが前提になることが確認されました。さらに、社長自身の引退後についても、健康を最上位に置いた人生設計や、人間関係を後継者に引き継いで自らは意図的にフェードアウトし「2人のボス」状態を避けることの重要性が話し合われました。

転機:後継者本人と向き合って見えた「形」の空白

3回目の相談は、Bさん本人との単独面談でした。これまで共有されてきた従業員承継の方針について、後継者候補自身の認識と準備状況を確認するためです。

ここで確認されたのは、Bさんが現時点で取締役に就任しておらず、会社の株式も保有していないという事実でした。営業・実務面の経験を持ち、顧客・取引先との関係も築けているという強みがある一方で、経営責任を担う立場と経営権の裏付けが一致していない。承継に伴う経営責任、経営権、借入や個人保証のリスクについても、今後改めて整理し、本人の理解を深めていく必要がある状態でした。

担当者は、Bさんが承継を判断する前提として、決算書・税務申告書、借入返済予定表、株主構成、登記事項、会社と代表者個人との貸借関係などを確認し、リスクを見える化することから始めるよう整理しました。そのうえで、代表者交代の時期、役員就任、株式譲渡の条件、個人保証の取り扱い、退職金の方針、承継後の現社長の関与範囲を盛り込んだ事業承継計画を、社長とBさんの間で作り上げていく。財務管理や資金繰り、決算書の読み方、株式・会社法の基礎、金融機関対応といった実務教育も並行して進める。支援は、リスクの見える化、後継者教育、計画の策定、そして役員変更・株式譲渡・金融機関との調整・従業員や取引先への説明という4つの段階で組み立てられることになりました。

この事例からの教訓

1. 「気持ちの承継」と「形の承継」は別物です 対話や育成がどれだけ進んでいても、役員就任・株式・個人保証といった法的・財務的な「形」が整っていなければ、承継は完了しません。気持ちと形の両方を、並行して設計することが必要です。

2. 後継者が「判断できる材料」を渡すことが先決です 財務内容や保証関係は、後継者が承継を引き受けるかどうかを判断する前提です。決算書や借入の状況、株主構成を段階的にでも開示し、早期に見える化することが、結果的に承継を前へ進めます。

3. 移行期間の設計が、ナンバー2をナンバー1に変えます 代表交代の前に、副社長などの立場で意思決定と責任を経験させる「プレ事業承継」の期間を置くこと。それが、長くナンバー2だった後継者の心理的な転換を支える仕掛けになります。

読者へのチェックポイント

  • 後継者は役員に就任していますか。株式承継の道筋は描けていますか。
  • 借入金と個人保証の引き継ぎについて、金融機関への相談を早めに始めていますか。
  • 後継者本人は、承継に伴う責任とリスクを具体的に理解していますか。
  • 後継者の家族の理解と、現経営者の親族への意思確認は済んでいますか。
  • 決算書・借入返済予定表・株主構成など、承継判断の材料を後継者と共有していますか。
  • 代表交代までの移行期間と、交代後の現経営者の関与範囲を決めていますか。

従業員承継は、信頼できる後継者が社内にいるという大きな強みから始まります。しかし、その信頼を承継の完了につなげるには、気持ちと形の両方を計画に落とし込み、一つずつ整えていく作業が欠かせません。迷ったときは、自治体の相談窓口や事業承継士といった伴走者を、早い段階から活用してください。