※本記事は、当社がこれまでに自治体や金融機関から受託して行ってきた事業承継の無料相談をもとに、ストーリー形式で再構成したものです。お話しくださったご相談者とその会社が特定されることのないよう、社名や人名を伏せ、記事に応じて内容の一部に手を加えています。登場する企業・人物は、特定の企業・個人を示すものではありません。
背景:時代の波に翻弄された、都内の老舗販売会社
A社は都内で創業から約50年の歴史を持つ会社です。もともとは別の業種で事業を営んでいましたが、時代の変化に合わせて事務機器やその消耗品の販売代理店へと業態を転換してきました。近年は、自社ECサイトでの消耗品販売が売上の9割超を占めています。顧客は不特定多数の個人・法人で、その都度いちばん安いものが選ばれる、厳しい価格競争の世界です。
10年ほど前をピークに売上は減少に転じ、利益率も大きく落ち込みました。背景には競争の激化に加え、経営者の高齢化に伴うIT化や経営革新の遅れがありました。連続赤字でボーナスが支給できなくなると社員の退職が相次ぎ、現在の体制は、実務を支える総務部長、すでに退職してパート勤務となった販売促進の元課長、ECサイトを維持管理する若手2名、荷役・受発注を担うアルバイト数名の10名未満。社長は80代で、年商は1億円台半ば、利益はほぼゼロという状況でした。
数年前から自治体の経営支援の担当者が同社に関わっており、3年前の経営診断では「現状のままでは3年以内に資金が枯渇する」と指摘されていました。しかし具体的な対策が打てないまま時間が過ぎ、その担当者の紹介もあって、自治体の事業承継訪問相談につながったのです。
相談の経過:残された選択肢は、譲渡か、早期の清算か
初回の相談には、総務部長と販売促進の元課長が対応しました。整理された経営の実態は厳しいものでした。仕入先である大手メーカー系の販売会社からは仕切値の引き上げ圧力があり、機器の年間販売ノルマの達成にも不安を抱えています。ここ数年続けてきた経費削減による収支均衡路線は、限界に達しつつありました。
訪問相談を担当した事業承継士は、取り得る戦略は大きく2つだと整理しました。ひとつは、M&A・事業譲渡によって事業部門の生き残りを図ること。もうひとつは、廃業清算を早めることで赤字による資金流出を抑え、従業員の労務債権を最優先で確保したうえで、経営者の会社への貸付金の回収や担保の解消を図ることです。そのうえで、次回までに売却可能な資産の洗い出しと、オーナーである社長自身の意思確認が必要であることを伝えました。
あわせて、単なる廃業は補助金や融資制度の対象外となるなど、廃業清算を目指す事業者への公的支援が実質的に乏しいという現実も共有されました。
転機:「売る話をした記憶がない」──創業社長の抵抗と決断
初回の時点から懸念されていた仕入条件の悪化は、2回目の相談で、その具体的な姿が明らかになります。長年の主要仕入先である大手メーカーの販売方針が翌年度から変更され、従来のメーカーからの直接仕入れは打ち切られ、地域の販売会社を介した仕入れへの切り替えを余儀なくされるというのです。マージンは大幅に減少し、商品を売るほど赤字になるという深刻な状況に陥りました。
この状況を打開するため、幹部社員が中心となってその販売会社への事業引き継ぎを模索し、すでに決算書3期分を先方へ提出していました。ところが、創業社長が「売る話をした記憶がない」と強い感情的な抵抗を示します。「自分で処理できる」「会社はなくならない」と主張するものの具体的な対案は示されず、議論は平行線をたどり、意思決定は完全に停滞しました。社長には、知らない相手にいきなり会社を評価されることや、性急な決断を迫られることへの強い抵抗感があったのです。
そこで2回目の面談では、一旦議論のレベルを下げ、事業譲渡の具体的な手順、従業員の処遇や負債整理といった課題、交渉の進め方を、関係者の間で丁寧に確認していきました。社長には金融機関への個人保証があり、赤字が続けば会社の負債が個人に及ぶリスクがあること。仕入条件の変更で現金先払いや保証金が必要になれば、資金繰りがさらに厳しくなること。事業を続ければ続けるほど傷が深くなる構図が共有されました。最終的に、従業員の寄り添うような対応によって社長の感情は軟化し、売却案を実行することに合意したのです。
ただし、合意はゴールではなく出発点でした。EC事業はキーパーソンである40代の従業員2名に依存しており、この2名が退職すれば事業の引き継ぎは事実上不可能になるうえ、譲渡先への通勤が可能かどうかも不透明であること。顧客向けのポイント制度の残高が会計上の負債として扱われ、売却価格から差し引かれる可能性があること。仕入先に預けている数百万円規模の保証金は、事業終了後すぐには返還されない可能性があること。担保に入っている可能性が高い自社不動産は、かつて工場として使われていた建物で、土壌汚染などの潜在リスクを抱えていること。そして「年内に目処をつけたい」という希望に対し、デューデリジェンスなどには通常3ヶ月以上を要し、焦って交渉を進めれば買い叩かれるリスクがあること。専門家はこれらの論点を整理し、次回までの資料作成を依頼するとともに、公的な無料相談で対応できる範囲には限りがあることを伝えました。
この事例からの教訓
1. 決断の先送りは、選択肢を確実に減らしていく この会社は3年前に「3年以内に資金が枯渇する」と指摘されながら、具体的な対策が打てないまま今回の相談に至りました。時間の経過とともに赤字は累積し、取り得る選択肢は「譲渡か、早期の清算か」まで絞り込まれていました。
2. 経営者の感情は、承継の最大の関門になり得る 数字の上でどれほど合理的な選択でも、創業者にとって会社を手放す決断は容易ではありません。本事例では、性急に結論を迫るのではなく、議論のレベルを一段下げて手順や課題を丁寧に確認し、従業員が寄り添ったことが、合意への道を開きました。
3. 事業譲渡は「合意してから」が本番 キーパーソンの処遇、ポイント制度などの見えにくい負債、不動産の担保や環境リスク。譲渡の実行段階では、日常の経営では意識されにくい論点が次々と現れます。時間的な余裕のなさは、そのまま交渉上の弱みに直結します。
読者へのチェックポイント
- 主要な仕入先・取引先の方針変更が起きたとき、自社のビジネスモデルは持ちこたえられますか。
- 「売上はあるのに利益が出ない」状態を、何年続けていますか。
- 会社の借入に対する経営者個人の保証の状況を把握していますか。
- 事業が特定の数名に依存している場合、その方々の処遇と意向を確認していますか。
- ポイント制度の残高や預け保証金など、帳簿の上で見落としやすい資産・負債を洗い出していますか。
- 譲渡や清算という選択肢を、感情と切り分けて検討する場を持てていますか。
経営が厳しくなってからの事業承継は、時間との戦いになります。選択肢がまだ残っているうちに、事業承継士や公的な相談窓口を活用し、会社の現在地を直視することから始めてみてください。
