※本記事は、当社がこれまでに自治体や金融機関から受託して行ってきた事業承継の無料相談をもとに、ストーリー形式で再構成したものです。お話しくださったご相談者とその会社が特定されることのないよう、社名や人名を伏せ、記事に応じて内容の一部に手を加えています。登場する企業・人物は、特定の企業・個人を示すものではありません。

背景:親族外承継を成し遂げた40代社長の、次の悩み

A社は首都圏で通信設備関連の工事業を営む小規模企業です。従業員は役員を含めて10名未満。外注の職人も活用しながら、専門性の高い工事を手がけてきました。

現在の社長Bさん(40代)は、数年前に当時の社長から株式を買い取る形で親族外承継を完了させた人物です。株式の代金に加え、先代への退職金や税負担も含めて数千万円規模の資金を借入で賄い、納税まで済ませて承継をやり遂げました。

しかし、承継後の経営は平坦ではありませんでした。感染症禍明けの反動で需要が戻り好調だった年もあったものの、直近2期は連続赤字。元請けからの仕事量は減少し、売上の約3割(かつては半分近く)を特定の元請け1社に依存する構造も残っています。業界全体の人材不足は深刻で、採用の場ではスカウトが数百件競合するほどの競争。従業員の高齢化や独立も進み、そして何より、Bさん自身の次を担う後継者候補がいませんでした。

こうした課題を踏まえ、Bさんは将来の選択肢としてM&Aを検討したいと考え、承継のときにも活用した自治体の事業承継訪問相談に再び申し込んだのです。

相談の経過:初回──「売る」前にやるべきことを整理する

初回の面談で印象的だったのは、BさんのM&A検討が後ろ向きの撤退ではなかったことです。目的は、事業の存続と拡大、従業員の雇用維持、人材確保問題の解決、そして自社の取引先口座やブランドの維持活用。Bさん自身は経営権を手放した後も、現場リーダーとして働き続けることを望んでいました。想定する相手先も、元請けの協力会社ネットワーク内にいる同業者。専門領域が異なるため、相互補完の関係を築ける可能性がありました。

訪問相談の担当者は、まずM&Aの手法の選択肢を整理しました。株式譲渡、業務提携、資本提携、株式交換──それぞれのメリットと注意点を説明したうえで、いきなり株式譲渡を目指すのではなく、まず業務提携で信頼関係を築き、その後に資本提携や株式譲渡へ進む段階的なアプローチを推奨しました。

企業価値評価についても重要な指摘がありました。赤字決算のままでは評価が下がるため、黒字化を達成してからのM&Aが有利になること。役員報酬や経費の適正化で実質的な収益力を示せること。技術力や取引先口座、人材といった無形の資産も評価の対象になることです。あわせて、従業員の雇用・処遇の維持、社長の継続勤務を定めるキーマン条項、社名や取引先口座の維持といった条件を契約に盛り込む必要性、仲介会社を使う場合の手数料や利益相反の注意点も共有されました。

結論はシンプルでした。M&Aは急がず、まず来期の黒字化と財務資料の整理を優先する──これが初回の到達点です。

展開:2回目──強まった売却の意向と、思わぬ「壁」

約5か月後の2回目の面談では、状況が動いていました。従業員1名が退職予定となり、代表を含めて3名程度の体制になる見込み。案件の引き合いは旺盛なのに、こなす人員が圧倒的に足りず、外注先の確保も困難。かつて主力だった分野の工事需要は激減し、元請けの体制変更で利益率も低下していました。現場と経営を兼務するBさんの負担は限界に近づいており、重圧から解放されて現場業務に専念したいという意向は一段と強まっていました。資金繰りに問題がないうちに、株式譲渡によるM&Aを早めに進めたい──相談は具体的な段階に入ります。

ここで思わぬ壁が浮かび上がりました。顧問税理士から「従業員を全員退職させて退職金を支払い、借入金を全額返済したうえで会社を売却する」という、一般的なM&Aとは異なる手法が提案されていたのです。人材と取引先ごと引き継げることこそが買い手にとっての価値であるだけに、このスキームが進めば成約の妨げになりかねません。

担当者は、代表が現場マネジメントを続けることや利益率の高い案件へのフォーカスなど、買い手に魅力が伝わる条件を整理して企業価値を高めること、株式の譲渡価格に固執せず、退職金や退任後の雇用条件・給与保障をセットにして交渉する選択肢を助言しました。税理士の提案については、専門家側で事例や妥当性を確認すること、そして関係悪化を防ぐため現段階では指摘を税理士に直接伝えないことも確認しました。次のステップとして、秘密保持契約を締結したうえで直近3期分の税務申告書を提出してもらい、具体的な企業評価と株価算定の目安を検討する手順を決めて、面談を終えています。

この事例からの教訓

1. M&Aは「逃げ」ではなく、前向きな経営戦略になり得る この事例のM&A検討は、雇用維持・人材確保・事業存続のための積極的な選択でした。経営者がまだ若く、譲渡後も現場で価値を発揮できることは、買い手にとっても魅力になります。「売る=終わり」ではなく、「託す=続ける」という捉え方が出発点です。

2. 赤字のまま売り急がない──企業価値を高めてから交渉のテーブルへ 赤字決算では企業評価が下がります。固定費の削減、黒字化の達成、財務資料の整理、強みの言語化。準備に時間をかけることが、結果として従業員の処遇や譲渡条件を守ることにつながります。

3. 身近な専門家の提案も、セカンドオピニオンで検証する 顧問税理士のような身近な専門家の提案でも、M&Aの実務では標準的でない場合があります。提案の妥当性を第三者の視点で検証すること、そして既存の信頼関係を壊さない伝え方に配慮することの両方が、円滑な承継には欠かせません。

読者へのチェックポイント

  • 会社を譲る目的(雇用維持、事業存続、自身の働き方)を言葉にして整理できていますか。
  • 直近の決算が赤字の場合、黒字化してから交渉に臨む段取りを検討しましたか。
  • 譲渡価格だけでなく、雇用・処遇・社名・取引先口座の維持といった条件を洗い出していますか。
  • 仲介会社・FAの手数料体系や、利益相反が起こり得る構造を理解していますか。
  • 顧問税理士など既存の専門家の提案を、第三者の視点で検証する機会をつくっていますか。
  • 秘密保持契約を結んだうえで決算資料を開示する、という手順を踏んでいますか。

事業承継は、一度やり遂げたら終わりではありません。株式を継いだ経営者自身が、次は「誰に、どう託すか」を考える日が来ることもあります。選択肢を狭めないためにも、余力のあるうちに事業承継士や公的な相談窓口を活用し、時間をかけて準備を進める姿勢が大切です。