経営者自身の「引き際」という盲点
事業承継の現場で頻繁に出会う壁の一つは、後継者や家族ではなく、現経営者本人の「引き際」です。責任感が強く、何でも自分でこなしてしまうタイプのトップほど、この傾向は顕著です。
会社を長年牽引してきた経営者にも、加齢という自然の摂理には勝てない時が訪れます。ところが本人にその自覚がなく、休養や検査を勧めても聞き入れない、というケースを何度も見てきました。
そうした場合に有効なのが、かかりつけ医の力を借りることです。家族から医師に「働き過ぎが心配だ」「最近疲れが見える」「本人に休むよう説得してほしい」と相談し、医師の判断という形を借りて、強制的に会社から距離を置く時間をつくるのです。
強引な方法に見えるかもしれませんが、これをきっかけに本人が「自分がいなくても回る会社にしなければ」と気づき、後継者への権限移譲が大きく進んだ事例もあります。事業承継とは、会社と経営者個人を切り分ける作業でもあるのです。
家庭に置き去りにされた子どもたちの、その後
もう一つ見落とされがちなのが、創業期の家庭の事情です。独立開業した当初は夫婦で寝食を忘れて働き、家庭生活が二の次になりがちです。子どもたちは寂しい思いをし、年長の子には幼い弟妹の世話や家事、時には仕事の手伝いまで負わされることもあります。
こうした環境で育った子どもたちは、成長するにつれて親の会社と心理的な距離を置くようになります。事業が軌道に乗り、いよいよ引退が視野に入った頃になって、経営者は初めて子どもたちとの距離に気づく、というのはよくある展開です。
そこから過保護に転じ、子どもを経済的に自立させられない、共依存に近い関係に陥る例も見てきました。後継者として育ってほしいと願うのであれば、家族関係の修復と後継者育成は同時並行で、しかも早い段階から着手する必要があります。着手が早いほど、解決の糸口は見つかりやすくなります。
ある後継者が選んだ「会社と人生の両立」
家族と会社の関係が複雑に絡み合った、忘れられない相談があります。
本来の後継者候補が予期せぬ事情で経営から退くことになり、消去法的に白羽の矢が立ったのは、家業を手伝いながら家庭を支えてきた娘さんでした。当初は役員という肩書きに戸惑っていたものの、経理や総務の実務を任されるうちに経営の実感をつかみ、父の急逝後には代表取締役に就任し、地域でも頭角を現す経営者へと成長していきました。
ところが、株式を相続した母親が、やがてこの娘に複雑な感情を抱くようになります。母娘は支え合うように生きてきましたが、その関係は、娘が人生の途中で結婚を決意したことをきっかけに大きく揺らぎました。母親は娘を手放すことを受け入れられず、夜ごとの話し合いが続き、娘は疲弊していきます。
相談を受けた私が向き合ったのは、「会社を社会的責任として続けること」と「一人の人間として幸せを選ぶこと」を、どう両立させるかという問いでした。悩んだ末に娘さんが選んだのは、経済的な支援は続けながら母親には自立を求め、会社そのものは信頼できる幹部に譲るという決断でした。心の整理がつくまでには相応の時間を要しましたが、彼女は新しい人生へと歩み出しました。
経営者と後継者に問いたいこと
年を重ねた親には子離れの時が、子には親離れの時が訪れます。事業承継のタイミングは、会社の経営権だけでなく、家族それぞれの人生を見つめ直す機会でもあります。
「自分がいなくても回る会社になっているか」「後継者に、家族の事情を押し付けていないか」「後継者自身の人生を、会社より優先させてよい場面はないか」。こうした問いを承継の議論の初期段階から意識的に持ち込むことが、結果として遅れのない、納得感のある事業承継につながるのではないでしょうか。