※本記事は、当社がこれまでに自治体や金融機関から受託して行ってきた事業承継の無料相談をもとに、ストーリー形式で再構成したものです。お話しくださったご相談者とその会社が特定されることのないよう、社名や人名を伏せ、記事に応じて内容の一部に手を加えています。登場する企業・人物は、特定の企業・個人を示すものではありません。
背景
首都圏でイベント用品のデザインから製造まで手がけてきた、創業から50年を迎えるある会社の相談です。数年前、新型コロナウイルスの影響で対面営業ができなくなり、売上が大きく落ち込んで赤字に転落した時期があり、会社はその立て直しに取り組んでいました。
ちょうどその創業50周年という節目の年、当時の社長に病気が見つかりました。詳しい病状は本人と家族の間にとどめられていますが、この健康不安をきっかけに、代表交代が急ぎ足で進められることになります。
先代には子が3人いましたが、家業を継ぐ意向を持つ実子はいませんでした。そこで白羽の矢が立ったのが、長女の夫、つまり婿にあたる人物です。もともと出版・編集の仕事をしていたこの婿は、子育てを優先できる働き方を模索していた時期でもあり、先代の家族からの誘いを受けて入社。数年をかけて後継者としての経験を積み、この年、正式に代表取締役へと就任しました。株式の大半(おおむね7割程度)は先代がなお保有し、残りは先代の配偶者が持つという体制での船出です。
先代は自身の健康不安を受け、代表交代と並行するように、資産の承継についても先回りして手を打っていました。金融機関の勧めもあり、個人所有の資産明細を作成し、相続税のシミュレーションを実施。遺産分割のための遺言書も用意し、公正証書として信託銀行に預けるところまで済ませていたのです。個人から会社への貸付金は3000万円程度、個人の純資産は7600万円程度にのぼるとみられ、備えとしては相当に手厚いものでした。
ところが、代表交代や資産承継の準備が進む一方で、会社の資金繰りは別の要因で厳しさを増していきます。コロナ禍の落ち込みを打開しようと、会社は大型のプリンターや転写機など、総額700万円を超える設備投資に踏み切っていました。すでに発注・納品を終え、工場では稼働が始まっている段階です。支払いはリースと手元資金を半分ずつ充てる形で決済済みでしたが、その結果、キャッシュフローが詰まる状況に陥っていました。
自治体の広報で助成金制度の存在を知った先代は、藁にもすがる思いで専門家相談の窓口を訪ねます。これが今回、初めて行われた専門家相談でした。
相談で整理されたこと
初回の面談では、次のような点が確認されました。
- 設備投資と資金繰り:大型プリンターなどの設備はすでに発注・納品・稼働まで進んでおり、支払いもリースと自己資金で決済済みという段階での相談だった。
- 助成金の活用可能性:制度の存在を知ったタイミングが、投資の意思決定・実行より後になっており、申請の対象にできるかどうかが焦点だった。
- 資産承継の準備状況:資産明細の作成、相続税シミュレーション、公正証書遺言の作成までは既に完了していた。
- 負債の状況:長期借入金が1800万円程度、加えて先代個人からの借入金が3000万円を超えており、これらの返済義務は後継者が引き継ぐ形になっていた。
- 工場建物の将来課題:工場の土地は会社の固定資産として保有しているものの、建物は築35年を数え、残りの利用期間は15年程度とみられた。ただし隣接する複数の建物と連なる構造のため、建て替えには近隣との足並みをそろえる必要があり、簡単には進められない事情も見えてきた。
専門家の助言
面談の結果、まず助成金については、すでに発注・支払いが完了している投資に対して申請できる制度ではないことが伝えられました。先代はこの結果に落胆した様子でしたが、専門家は後継者について、編集者としての経験からデザイン業界の知識もあり、前向きなエネルギーを持っているという印象を持ったといいます。
そのうえで、専門家からは次のような所見が伝えられました。
- 経営が厳しい局面にもかかわらず大型投資に踏み切った背景には、先代自身の健康不安からくる焦りがあったのではないか、という見立て。
- 本来、返済義務を負うのは後継者であることから、投資の判断には後継者自身の意思が反映されるべきだが、婿と義父という間柄もあってか、両者の間で話し合いがほとんど行われていなかったこと。
- 後継者は経理の知識がほとんどなく、運転資金の不足を役員報酬の減額で補っている会社の実情を理解できていなかったこと。
- 工場建物の建て替えには資金の積み立てが必要になるため、早い段階から計画的な準備を始めることが望ましいこと。
面談を担当した専門家は、後継者にはまだ経営の基礎を学ぶ余地が大きいと感じ、自治体が提供する事業承継関連の学びの場を案内しました。今後、経営改善に向けた相談に発展する可能性があることも申し添えられています。
面談後にいただいたメールには「助成金や補助金の活用は簡単ではないことがよく分かった。今回は自力で頑張ろうと思う」という趣旨の言葉があり、前向きに次の一歩を踏み出す姿勢がうかがえました。
この事例から学べること
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「備え」と「経営判断」は別物である:資産明細の整理、相続税シミュレーション、公正証書遺言の作成など、資産承継の備えを先回りして済ませていたことは高く評価できます。しかし、それと並行して進んでいた設備投資という「経営判断」については、返済義務を負う後継者を交えた検討が十分でなかったことが、キャッシュフローの逼迫という形で表面化しました。承継の備えと日々の経営判断は、どちらか一方だけでは会社を守れません。
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健康不安は意思決定を急がせる:経営者自身の健康不安は、代表交代のような重い決断を後押しする一方で、他の重要な経営判断についても「今のうちに」という焦りを生みやすいものです。焦りから下した判断が、後継者に重い負担として引き継がれることもあるという点は、心に留めておく必要があります。
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助成金は「知ったタイミング」がすべてを左右する:多くの助成金・補助金制度は、投資の実行前に申請することが前提になっています。今回のように、既に発注・支払いが完了した後で制度を知っても、活用できる余地はほとんど残っていません。制度の存在は、投資を検討する初期の段階で確認しておくことが欠かせません。
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姻族関係だからこその「言いにくさ」に目を向ける:婿と義父という関係は、実の親子以上に率直な意見交換がしにくい面があります。誰が返済義務を負うのかを明確にしたうえで、重要な経営判断には後継者自身を主体的に関与させる仕組みを、意識してつくる必要があります。
今回の相談は、初回の面談で助成金の活用が難しいことが判明したところで一区切りとなりました。しかし、資産承継の備えは整っていても、日々の資金繰りや経営判断への後継者の関与づくりという別の課題が残されていることが、この一度の面談だけでも浮き彫りになりました。事業承継は、相続や株式といった「資産の承継」だけでなく、判断や情報を後継者と共有していく「経営の承継」もあわせて進める必要がある——そのことを示す事例だといえるでしょう。
