※本記事は、当社がこれまでに自治体や金融機関から受託して行ってきた事業承継の無料相談をもとに、ストーリー形式で再構成したものです。お話しくださったご相談者とその会社が特定されることのないよう、社名や人名を伏せ、記事に応じて内容の一部に手を加えています。登場する企業・人物は、特定の企業・個人を示すものではありません。

背景:営業をしなくても仕事が来る、首都圏の業務用機器サービス会社

A社は首都圏で業務用機器の販売・修理業を営む会社です。約20年前、実父である先代の急死を受けて、親族である現社長が事業を引き継ぎました。過去には資金繰りに窮する厳しい時期も経験し、自前の作業場や在庫を抱える業態から、在庫を持たずに運営できる現在の業態へと転換してきた歴史があります。

現在の主力は、消耗部品の仕入販売と業務用機器の修理・点検です。役員は社長を含む家族2名だけで従業員はおらず、現場は外注の職人3名(40代〜60代)が支えています。長年蓄積してきた修理・点検の履歴データを持っているため、営業をしなくても仕事を確保できるのが強みです。

社長は近い将来の事業譲渡を視野に入れていました。課題は、後継者をどう決めるか(外注の職人への承継か、同業へのM&Aか)、そして退職資金として目標とする約3,000万円を確保できるか。実現可能性が低ければ廃業も選択肢の一つ──社長は迷いを抱えている状態でした。相談のきっかけは、ちらしでした。こうして、自治体の事業承継訪問相談が始まります。

相談の経過:頭の中の経営を「見える化」する

初回の相談で、訪問相談の担当者は会社の課題を一つずつ整理しました。収益性は低く、過去の納品先への修理・点検が主体のため、将来に向けた顧客の維持・拡大ができていません(導入先からの修理・点検需要そのものは底堅くあります)。顧客数は60社前後で、取引は減少傾向。強みである履歴データも、パソコン上の古いデータベースと紙で管理されており、更新が必要な状態でした。

さらに、長年放置されてきた名義株の存在も確認されました。担当者は、まず名義株を解消して発行済株式総数の3分の2以上を確保すること、「従業員承継」と「同業への売却」を並行して評価・シミュレーションすることを助言します。役員借入金が約700万円あるなかで目標額の退職金まで確保するのは「非常に難しい」とも率直に伝えました。そして、誰に引き継ぐにしても、現社長がすべて頭の中で解決してきたことを数字と文書で「見える化」する作業が不可欠だと強調しました。

2回目の相談で分かったのは、宿題とした「株主の整理」も「後継者の選定」も手つかずだったことです。ただ、一つだけ動きがありました。社長が忘年会の帰りに、外注の職人のうち40代の若手へ、それとなく事業継続の意思を確認していたのです。感触は前向きでした。しかし、譲渡価格や借入金の肩代わり、譲渡代金の支払いといった核心には、まったく踏み込めていません。「口にして拒否されたら人間関係にひびが入り、仕事量の確保が難しくなって赤字に転落しかねない」──それが踏み込めない理由でした。

担当者の指摘は明快でした。数字による具体的な説明ができないまま、感覚的な打診をしても意味がない。この職人はもともとA社で働いていた人材で、その後独立した経緯があります。事業承継とは、現社長と後継者が対等の立場で、株式や事業の売買という過程を経て代表交代を行うこと。経営を意識してもらい、学びを促し、経営者感覚を磨いてもらってからでなければ、単なる事業の押し付けになってしまいます。「会社を売る」ということは「会社を商品化する」ことにほかならない──担当者はそう整理しました。価値がどこにあるかを見える化し、数字で示せるようにする作業が先だ、というわけです。

展開:後継者候補の手取りは20万円台後半──数字が突きつけた現実

3回目の相談では、承継の前提となる収益モデルの再構築へと議論が進みました。後継者は内部の候補者を最優先とし、外部からの招聘は最終手段とすること。後継者の「志」と「資金」に加えて、生活基盤の安定性まで見極めること。情報収集の観点から民間の金融機関との関係も新たに築くこと。事業譲渡の枠組みとして資産と負債を切り分ける方法があること──承継の設計に関わる論点が示されました。

収益面でも具体的な打ち手が並びました。売上の大半を占める一部の優良顧客にリソースを集中させること。役員報酬や事務所家賃といった固定費の削減が、最も直接的な資金創出策になること。顧客カルテや修理・点検履歴という「目に見えない情報資産」を整理し、事業価値として示せる形にすること。前払いモデルの導入で先行キャッシュの確保と顧客の囲い込みを同時に実現すること。

同時に、厳しい現実も数字で確認されました。後継者候補である職人の手取りは20万円台後半。この金額のまま経営を引き受け、維持していくことは考えにくい水準です。担当者は「後継者候補に数字を隠すような状況では事業承継はできない」と伝えました。未来の収益、現状の資金、顧客との関係性──これらをすべて事実として、データとして白日の下にさらす勇気が必要だ、と。

低収益の事業をそのままの形で引き継いでも、社長が望む経済的な成果と「社名と歴史を残す」という夢は実現できない。次回の面談は、決算書の仕上がりを待って、数字を明確にしてから行うことになりました。

この事例からの教訓

1. 感覚的な打診の前に、「見える化」を済ませる この会社の強みも課題も、社長の頭の中にありました。譲渡価格も、引き継ぐ借入も、将来の収益も、数字で示せなければ相手は判断のしようがありません。打診の言葉より先に、数字と文書による説明の準備が必要です。

2. 承継は「押し付け」ではなく、対等な立場での売買 長年の雇用関係や外注としての関係の延長で、上からの打診をしても対話は成立しません。後継者候補に経営者としての学びを促し、対等の立場で株式や事業の売買を行う──その過程を省略した承継は、事業の放り投げになりかねません。

3. 磨き上げなしの承継は、夢をつなげない 低収益のままの事業を渡しても、譲る側の退職資金も、残したい社名と歴史も守れません。優良顧客への集中、固定費の削減、情報資産の価値化。承継の前に収益モデルを再構築する「磨き上げ」こそが、承継の実現可能性を高めます。

読者へのチェックポイント

  • 会社の仕事の中身を、数字と文書で第三者に説明できる状態になっていますか。
  • 後継者候補への打診を、雰囲気や感触だけで進めようとしていませんか。
  • 退職資金や借入返済など、譲る側の希望額と会社の収益力に開きはありませんか。
  • 顧客データやメンテナンス履歴などの情報資産を、価値として示せる形に整理していますか。
  • 株主名簿は実態に合っていますか。名義株を放置していませんか。
  • 後継者候補に決算書などの数字を開示する覚悟はできていますか。

事業を譲るということは、会社を「商品」として磨き、その価値を数字で示すことから始まります。長年の信頼関係があるからこそ、曖昧な打診ではなく、事実とデータに基づいた対話が必要です。迷いがあるときこそ、事業承継士や公的な相談窓口を活用しながら、順番を間違えずに進めていきましょう。