※本記事は、当社がこれまでに自治体や金融機関から受託して行ってきた事業承継の無料相談をもとに、ストーリー形式で再構成したものです。お話しくださったご相談者とその会社が特定されることのないよう、社名や人名を伏せ、記事に応じて内容の一部に手を加えています。登場する企業・人物は、特定の企業・個人を示すものではありません。
背景:「生涯現役」を望む社長と、まだ顕在化していない課題
A社は都内で自動車の販売・整備業を営む会社です。新車・中古車の販売、車検・点検整備、損害保険の取り扱いと、一口に「まちのクルマ屋」といっても業務の範囲は多岐にわたります。
社長は60代後半。会社を創業したのは社長の父でしたが早くに亡くなり、社長自身が苦労して事業を立て直してきました。実質的には創業者と言ってよい存在です。長年ともに働いてきた妻も取締役として会社を支えており、そろそろ引退して自由な時間をつくり、人生を楽しんではどうかと提案していました。
事業承継、税金対策、後継者育成、引退後のライフプラン。課題は挙げればいくつもありますが、社長がまだ60代と若く、「生涯現役を貫きたい」という希望を持っていたこともあり、どれも顕在化はしていませんでした。そうした中、セミナーをきっかけに、自治体の事業承継訪問相談を受けることになったのです。
相談の経過:初回面談で見えた「動き出せない」構図
初回の面談はご自宅で行われました。後継者は3人の息子の中から探したい意向があるものの、個別具体的な話はできていません。一方で自社株の評価は高騰しており、純資産は数億円規模に達する見込みでした。子どもが事業を引き継ぐ意思を持たない、あるいは後継者候補が決まらないまま、店舗や整備工場の土地建物を中心とする高い資産価値に伴う相続税のリスクにどう対処するか。これが社長を悩ませる課題でした。
訪問相談の担当者は、まず子どもたちへの意思確認を行い、引き継ぐことの意味を説明したうえで、承継の完成までを見通す事業承継計画書の作成を提案しました。夫婦で話し合いながら引退計画を考え、あと何年の時間があるかを見通していく。今後は家族会議などを経て一族の総意をまとめ、専門家相談を重ねながら夫妻の意思決定を促していく方針です。
担当者が着目したのは、この会社の根幹が「地域との信頼関係」にあることでした。地域の信用がなければ永続できない仕事であり、この目に見えない経営資源を引き継ぐことこそが事業承継の大きな壁です。後継者教育から始めるとすれば、ゆうに数年はかかります。一度にたくさんのテーマが悩みとして頭を占めると、一歩も前に進めなくなる。担当者は次回までに思いの整理をするよう助言し、初回の面談を終えました。
転機:緊急入院が変えた、時間の前提
約2か月後の2回目の面談では、状況が一変していました。社長が心臓の持病の再発で緊急入院していたのです。以前に治療を受けた際は数泊の短期入院で済んでいたのに対し、今回の入院は2週間近くに及びました。この経験から、社長は事業の将来設計の必要性を痛感していました。
議論は「事業の後継者を誰にするか」に絞られましたが、状況は複雑でした。社長には長男・次男・三男の3人の息子がいますが、数年前から3人とも家族関係が途絶えたままで、対話の再開そのものが最初の壁になっています。その中で候補に挙がったのは次男です。次男は公務員として勤めており、承継の意思はあると伝わっていますが、現場の経験も、この仕事に必要な資格や免許も持っていません。民間企業の経営感覚や、金融機関への個人保証という重い責任を負う覚悟も含め、経営者としての育成には時間がかかります。社長の健康問題により、その時間的な猶予が乏しくなっていました。
さらに、大病を経たにもかかわらず、社長はいくつかの団体の代表や世話人といった役割を断りきれず、心身に大きな負担を抱えたままでした。
こうした状況を踏まえ、1年後を目処に後継者を正式に決定し、事業の未来設計図を明確に描いて、社長が安心して経営から退ける体制を築くことが目標とされました。これに向けて、専門家は具体的な取り組みを助言しました。社長の仕事を「自分にしかできない仕事」「誰かに任せられる仕事」「この際断る仕事」に棚卸しすること。断るべき役割のリストをつくり、代理を立てる計画を立てること。そして、3人の息子の誰を後継者とするか、ゼロベースで再検討し決意を固めること。後継者が個人保証を含む経営責任を引き受ける誓約書にサインし、社長が安心してリタイアできる状態になることが、成功の尺度とされました。次回の面談は約1か月後に設定されましたが、病状により流動的です。
この事例からの教訓
1. 「まだ早い」と言える時間は、ある日突然失われる 初回面談の時点では、課題はどれも顕在化していませんでした。それが約2か月後には、健康問題によって一気に緊急性を帯びたのです。承継の準備を始める適切な時期は、経営者の意欲ではなく、不測の事態が起こり得るという前提から逆算して決める必要があります。
2. 後継者選びは、家族関係の問題と切り離せない この事例の最大の障壁は、能力や適性以前に、後継者候補との対話が断絶していることでした。家族関係の修復そのものが、事業承継の重要な工程になり得ます。関係がこじれてから修復するには、当事者の強い決意と時間が必要です。
3. 経営者の仕事の棚卸しが、承継と健康の両方を守る 自分にしかできない仕事、任せられる仕事、断るべき仕事。この整理は、後継者への引き継ぎの設計図になると同時に、経営者自身の負担を減らし健康を守ることにもつながります。
読者へのチェックポイント
- 「生涯現役」を前提に、承継の話し合いを先送りしていませんか。
- 明日から経営の指揮を執れなくなった場合、誰が会社を引き継ぐか決まっていますか。
- 後継者候補である家族との対話は続いていますか。関係が途絶えたままの家族はいませんか。
- 自社株や土地建物の資産価値と、それに伴う相続税の負担を把握していますか。
- 自分にしかできない仕事と、任せられる仕事・断るべき仕事を区別できていますか。
- 承継の完成までを見通す事業承継計画書の作成に着手していますか。
事業承継の準備は、経営者が元気なうちにしか始められません。課題がまだ顕在化していない「平時」こそが、実は最も貴重な準備期間です。少しでも気がかりがあるときは、事業承継士や公的な相談窓口を活用しながら、時間の余裕があるうちに一歩を踏み出すことが大切です。
